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早くから軍務につき、オーストリア陸軍少将まで昇進した。表面的には平穏な日常が続いていたが、1914年、サラエボ事件でフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたことで、皇位継承者に指名される。 1916年、第一次世界大戦中にフランツ・ヨーゼフ1世が86歳で崩御し、29歳で皇帝に即位する。 1917年、義理の弟であるパルマ公子シクストゥスを通して、秘密裏に連合国側との平和交渉に着手した。シクストゥス公子と弟のグザヴィエ公子は、フランスとの単独講和について秘密交渉によって合意を得たが、1918年に独墺間の離反を謀ったフランス側によって暴露されてしまい、交渉は水の泡となる。また同盟国だったドイツの信用も失う結果となった。 投資信託 1918年、同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反し(チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランドなどが共和国を宣言)帝国は崩壊していく。11月3日無条件降伏。11月11日シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」において退位表明である国事不関与の声明を出した後、宮殿を去った。こうして、700年余りに及ぶハプスブルク家のオーストリア支配が終焉を迎えた。その後、1921年にハンガリーにおける主権を取り戻そうとしたが失敗し、スイスへの受け入れも拒否されたため、ポルトガル領マデイラ島に亡命。翌年4月肺炎のため亡くなった。 政治的に成す事の少なかったカールであるが、キリスト教徒としては非常に敬虔な人物であった。死後82年目の2004年10月3日、カール1世はローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福されている。20世紀の国家元首で福者となったのはカール1世が初めてである。 なお、カールの子供達は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。 [編集] 子女 皇后ツィタとの間に6男2女をもうけた。末子エリーザベトはカールの死後に誕生した。 オットー(1912年11月20日 - ) ハプスブルク家現当主、元欧州議会議員。 アーデルハイト(1914年1月3日 - 1971年10月2日) ローベルト(1915年2月8日 - 1996年2月7日) フェリックス(1916年5月31日 - ) カール・ルートヴィヒ(1918年3月10日 - 2007年12月11日) ルドルフ(1919年9月5日 - ) シャルロッテ(1921年3月1日 - 1989年7月23日) エリーザベト(1922年5月31日 - 1993年1月6日) カール5世(Karl V, 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝(在位:1519年 - 1556年)。スペイン王としてはカルロス1世(Carlos I, 在位:1516年 - 1556年)と呼ばれる。宗教改革期の動乱やオスマン帝国の圧迫といった困難な時代にあっても、当時のヨーロッパから新大陸に広がる広大な領土をたくみに統治した有能な君主であったが、晩年には相次ぐ戦争に疲れて自ら退位し、修道院に隠棲した。先物取引 目次 [非表示] 1 カール5世の血筋 2 生涯 2.1 生い立ち 2.2 フランスとの戦い、宗教改革への対応 2.3 オスマン帝国との戦い 2.4 トリエント公会議と宗教和解への努力 2.5 退位と晩年 3 子女 4 年表 5 関連項目 [編集] カール5世の血筋 カール5世 父: フィリップ美公(ブルゴーニュ公) 祖父: 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 祖母: ブルゴーニュ女公マリー 母: カスティーリャ女王フアナ 祖父: アラゴン王フェルナンド2世 祖母: カスティーリャ女王イサベル1世 「カール5世は〜国の人間である」というのは難しい。なぜなら、父方からハプスブルク家の血を受け継いだ神聖ローマ皇帝であるものの、ドイツ人とは言い難いからである。カールはネーデルラント(低地諸国、現在のベネルクス諸国)、フランドルのガン(ヘント、現在はベルギーの都市)で生まれ、母語は当時のフランドル貴族の公用語であったフランス語であった。 FX カールはフランス人ではなかったが、フランスとパリをこよなく愛した。当時の貴族の常として西欧最大の都市にして西ヨーロッパ社交界の中心都市であったパリに数回滞在しており、フランス社交界でも「シャルル・カン」(Charles Quint)として知られていた。父フィリップも親仏派だったといわれるが、カール5世は「パリはもはや都市というより、一つの世界だ」(ラテン語:Lutetia non urbs,sed orbis.)と言ったと伝えられる。最もよく使ったのもフランス語だったが、皮肉なことに政治的にはフランス王と生涯対立関係にあった。 母フアナはスペイン出身であり、統治領域の中心はスペインであったが、スペイン人とも言い難い。カール5世は自分の生まれ故郷の低地諸国に愛着をもっていたが、スペインでは「外国人君主」といわれ、なかなかなじめなかった。それでもカール5世はスペイン王位についてから熱心にスペイン語を覚え、スペインで受け入れられるよう努力をしている。ちなみに、弟のフェルナンド(神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)は兄と違ってスペイン生まれのスペイン育ちである。 ヨーロッパ全域を精力的に回り、マルチリンガルだったカールも、ドイツ語は話そうとしなかった。カールの言葉として伝えられる有名なものに「スペイン語は神への言葉、イタリア語は女性への言葉、フランス語は男性への言葉、ドイツ語は馬への言葉」というものがある。スペイン国王として、神聖ローマ皇帝として、カール5世は生涯かけてヨーロッパ全土を回り、アフリカにまで足を伸ばしている。 生涯 [編集] 生い立ち 少年時代のカールカール5世は1500年にフランドルのガン(ヘント)で生まれ、1517年までネーデルラントで育った。名前は曽祖父シャルル豪胆公にちなむ。共に暮らしていた両親は、1506年にカスティーリャ王位を継承するためスペインへ渡った。残されたカールは叔母のネーデルランド総督マルグリットに育てられた。少年時代の個人教師には、後に教皇ハドリアヌス6世となったオランダ人、ユトレヒトのアドリアンがおり、恵まれた環境で帝王学を学んだ。さらに側近としてシェブレ侯やジャン・ル・ソヴージュ、メルクリノ・ガッティナラらが従っていた。 日経225 1506年、スペインに渡ったばかりの父が急死すると、幼くしてネーデルラントの継承者ブルゴーニュ公となった。1516年に祖父のフェルナンド2世が死去すると、母フアナと共同統治という形でカスティーリャ王になった(この頃、フアナはすでに精神を病んでいた)。それは同時にアラゴン、ナバラ、グラナダ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、さらにスペイン領アメリカにいたる広大な領域の統治者となったことを意味していた。1515年、祖父マクシミリアンによりハンガリーとボヘミアの王家であるヤゲロー家との二重結婚が取り決められたが、アンナ王女がカールと弟フェルディナンドのどちらの妃となるかはその時点では未定だった。結婚相手を、将来の皇帝であるカールではなく弟フェルナンドに決めると、ハンガリー側からは猛反発を受けた。しかしフェルナンドとアンナにとっては幸福な結婚となった。 1517年に初めて「本国」スペイン入りし、トルデシリャスで母と再会すると、バリャドリッドで摂政ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿を解任して親政を開始したが、中央集権化の実施と「外国人君主」の統治に反発していた諸侯たちと争うことになった(カスティーリャ戦争)。この戦争に勝利したことでカール5世は名実共にスペインの統治者となり、その強大な兵力を用いて生涯各地を転戦することになる。1519年に祖父マクシミリアン1世が死去すると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承した。さらに1519年6月28日には、フランクフルトに集まった選帝侯たちがカール5世を神聖ローマ皇帝に選出した。1520年には戴冠式の途上、イングランドに立ち寄ってヘンリー8世夫妻と対面している。ヘンリー8世の王妃キャサリンはカール5世の叔母だったからである。その後、伝統に従ってアーヘンで神聖ローマ皇帝としての戴冠を受けた。 [編集] フランスとの戦い、宗教改革への対応 カール5世は生涯フランス国王との戦争を繰り返すことになる。初めは1521年に北イタリアで争い、後にイタリア全土を戦火に投じることになる(イタリア戦争)。1527年にはカール5世のドイツ人傭兵たちがローマで狼藉を働いた。これがローマ略奪である。このような行為はカール5世の意図するところではなかったとされるが、結果的にカール5世の軍勢を恐れた教皇クレメンス7世が、イングランド王ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、イングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。 1521年、スペインで1年あまり続いたコムネロスの反乱を鎮圧した。 神聖ローマ皇帝として、カール5世は当時論議の的となっていたマルティン・ルターの扱いにも苦慮し、身の安全を保障してヴォルムスの帝国議会に召喚している。結果的にカール5世はルターの主張を認めず、その同調者たちと共に法の保護を剥奪するが、プロテスタントの興隆を食い止めるほどにはならなかった。 外為 ヘンリー8世と同盟しておこなった対フランス戦争では1525年にフランス王フランソワ1世を捕虜とすることに成功し、1526年にフランスの北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード講和条約を承認させた。しかし、フランソワ1世は釈放されるとすぐに前言を翻してこの条約を破棄したため、1529年にあらためてフランスとの間にカンブレー講和条約を、教皇庁との間にバルセロナ和約を結んで、北イタリアにおける権益を確保した。1524年に起きたドイツ農民戦争とシュマルカルデン同盟の成立に際しては、手一杯だったカール5世は弟のフェルディナントを代行としてドイツにおける政務を委託している。 |
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